計時装置としてのデジカメ 2008.1.9

     一昨年秋頃から山歩きを始めた。下山後には、その日の山歩きの記録を整理する。途中の分岐点や頂上ピークの通過時刻を記録に留めるのだが、その時刻は、当初、通過時刻をメモした紙から拾っていた。

     初めて歩く道では、分岐に出会う度に、さてどちらに進むのが正しいのだろうかと思案するのが先で、その先に進んでから、そうだ今の通過の時刻をメモらねばと、後から記録することが多かった。時には、忘れてしまうことも多々あった。メモる時間も不正確である。

     下山後の整理中に、「頂上に着いたのは何時だったかなぁ?」、「休憩の後出発したのは何時だったっけ?」と同行の妻に尋ねても、「そんなの知るわけないじゃん」、というつれない返事。

     ある時、山の中で撮った写真を整理中にふと気が着いた。デジカメからPCに取り込んだ画像ファイルには、撮影時刻が記録されている。そうだ、これを使えばいいんだ、とメモを取り忘れた箇所は画像ファイルの撮影時刻を使うようにした。その後、山に出掛けた時、メモを取ろうとしてこれまた気が着いた。メモ代わりにシャッターを切れば良いのだ。ということでメモは棄ててデジカメをフルに活用することになった。

     こうなると、時刻を記録するためだけにシャッターを切ることも多々ある。頂上に着けば、まず頂上を示す何かを撮る。その後、風景などを撮るのだが、ここで休憩を取った時、暫く休んでさぁ出発という時には、何かを撮るのである。この時、何を撮るかで悩むことがある。

     計時記録のためと割り切るならば、レンズに蓋をして真っ暗闇を写してもいいわけだ。画像ファイルは後で消せば問題ない。ところが、真っ暗闇の写真を撮ることは、画像ファイルのファイル番号を一つ無駄に消費することである。これが、昭和世代の田舎育ちにとっては、勿体無いのである。単に時刻の記録ためといえども有意義な写真を撮りたいと思ってしまう。

     そこで頂上に着いた時、すぐに写したいと思う風景などをわざと撮らずに残しておいて出発時に撮るなんてことをしたりする。もう撮るものが無いなんて時には、地面にザックを置いてザックだけを撮る。ザックを写すのはここで休憩した証ともなるという訳だ。

     デジカメで時刻記録を取るようになってから随分正確に記録が残せるようになったが、時刻以外の記録には役が立たない。

     左岸の道を歩いたか、右岸の道を歩いたか、堰堤は右から巻いたか、左から巻いたか、滝は、右・左どちらを登ったか、など写真を取って後で見返して見てもよく判らない事がある。歩いている、あるいは登っている姿を逐一セルフシャッターで自分撮りでもすれば良いのかも知れないが、私にはちょっと無理。

     一体に山の林の中の写真というものは、近景も遠景も同じなものだから奥行き、いわゆる立体感に乏しく味気ない写真が多い。一人でも人物が写り込むとそうでは無いのだが。地獄谷を歩いた時は、小さな滝が多すぎて後から写真を見ても何がなんだか良く判らなかった。ということで、西山谷遡行では、デジカメだけでなく逐一紙のメモを取った。